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笛を吹くことが楽しくあるために

昨年、先代のお家元に習っていた方が17年ぶりに笛を習いたいと私の教室にお越しになり、それは17年前から変わらない正統な福原流の音でした。

大変懐かしい気持ちになりましたと同時に、私の笛は17年前のとはかなり異なったものであると、改めて気づかされます。そして歳を重ね、教えていただくことが無くなり、習い始めた頃のようなスピードで上達しない今、得たものはたくさんあっても失ったものもあり、悔やまれる気持ちもあります。

それでも今もなお笛を続えているのはとにかく飽きないからということに尽きます。

最初は、音が鳴る、短いフレーズが吹けるようになる、譜面がスラスラ読めるようになる、間違えなくなる、吹ける曲が増えるなど、出来ることが増えるたびに喜びを感じるでしょう。しかし一通りを終えそれが当たり前になっておしまいでは、一般的な音楽にはない邦楽独自のアプローチを知らないままで終わることになり、篠笛の本質を知ったことにはなりません。

より良い音、良いフレーズなど、同じ曲であっても、時間が経ちもう一度吹いてみるとその出来の違いに上達を感じ、楽しいと思えるでしょう。続ける期間が長くなればそれだけ深い部分を意識するようになり、出来るようになるまでの時間が長くなり、難しくなるということですが、質の高さに喜びがあることを知りはじめて、本当の笛が楽しさがわかります。

「本当の楽しさ」は自分で見渡し、見習い、見つけることで得られます。それを「教えてくれ」という気持ちでは、最後はつまらないものになります。

先生にもさまざまな方がいらっしゃいますが、見渡し方や見習い方、見つけ方など「方法」を教えることは出来ても、その方法を実際に試すのは自分自身で、つまり「喜びそのもの」を教えることは出来ません。先生が仰るどのような方法にも共感できなければ、自分で見つけるしかありません。

篠笛を吹いてみたいと思った一番最初のささやかな喜びは、自分で得た実感です。難しくなり乗り越えられない時はそのことを思い出し、自ら見渡し、見習い、見つけようとすれば、楽しさは必ずおとづれます。

最後に先代のお家元が最後に私に仰ったことは、「何か吹いてよ」でした。当時は怖くて吹けませんでしたが、今は何を言われても吹けば良かったと思います。笛を吹けなくなるまで続けることができたら、どんな笛を聞いても喜びになる、そんな境地ではないかと考えています。

楽しいと実感する喜びは瞬間、その一瞬のために、最終的には自分で何かを見つけ、楽しく吹き続けられるようになってほしい、そんなことを伝えられる先生になろうと思います。